1982年7月、いよいよイタリアへ渡る直前、私は、異国での暮らしに不安を募らせながら、荷物の整理を…していませんでした。
出発までに120号の日本画を完成させようと、レストランの仕事が終わるや絵の制作にかかりっきりの毎日で何の準備も始めない私に、両親はやきもきしていたようです。「あんたは、知らん国に行くのにナーンも心配しとらんねぇ」別に楽観していたわけではないのですが、今より、はるかに情報の少ないころで、一応イタリア語も少しは勉強したし、まあ何とかなるだろう…と、それ以上考えが進まなかったというところでしょうか。出発の前夜には、友人たちと吉田拓郎のコンサートに行き、大盛り上がり。
翼 1982年7月
南回りで今の倍近い飛行時間をかけ、ローマのレオナルド・ダビンチ空港に着いた私を迎えてくれたのは、父の長年の友人であり私も面識のあったロランド氏。すぐに、ローマ郊外、海岸の町オスチアにある、エナルク職業訓練ホテル学校に連れて行かれました。政権の移り変わりにより、国立となったり州立となったりして、授業形態も多少変化があるようですが、調理師コース、サービスコース、事務コースなどに分かれ、それぞれ二年で基礎を身につけるための学校です。入学手続きを済ませたものの、新学期にはまだ二ヶ月あります。その間、サービス・コースの教官がオーナーとなっているレストランに住み込むことになりました。
この年は、イタリアがサッカーワールドカップで優勝した年。着く早々、最終二戦がたて続き、国中が沸きに沸く中、優勝が決まるや車に乗り合って町の中央広場へ突入です。窓からのり出し、笛やクラクションを響かせて、前後左右、接触スレスレでパレードする暴走族さながらの一般市民。私もその中に埋もれていました。